14日は金曜日
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午後一の授業を受ける生徒がばらばらと学食をあとにし、残ったのは学食が空くのを狙ってやってきた学生と、すでに食事は済ませたが午後一の授業をとっていない学生で特に用事のない者だけだった。守は後者の部類に入る学生で、いつもなら昼食後は図書館でだらだらと過ごすのだが、それも何となく億劫で四割から五割入りの学生食堂に残っていた。あらかじめ教員にサイトからプリントアウトしておくように言われた教材を食堂の長いテーブルに置いて、形ばかり読む姿勢に入る。
そんな守の目の前にドン、と置かれたのはコンビニで買ったものらしきカツ丼だった。守が手元の教材からカツ丼の前へと視線を動かすと、案の定というかなんというか、立っていたのは推理作家志望の工学部生、真壁直人だった。その後ろには医学部の平野がいる。この二人が連れ立って歩くとは珍しい。何か悪いことが起こる予感がして、守は読もうとしていた教材を裏返した。
「説明してもらおうか、守」
また唐突な台詞だが、これはあれか、と守は思った。あれだ、あれ。いまどき二時間の刑事ドラマでも出てこないシーン。カツ丼を食わせてやるから吐け、みたいな展開を狙っているのか。あいにく守はすでに昼食を牛丼で済ませた後なのだが、勿論この男にとってそんなことは一切お構いなしなのだろう。
「むしろ俺は、お前が俺に何の説明を求めているのかをまず説明してもらいたいね、直人」
置かれたカツ丼を押し返そうとするまでもなく、カツ丼は直人の手元に引き戻された。元々自分で食べるつもりのカツ丼だったらしい。それならそれで、紛らわしい位置に置かないで欲しい。なんだか引っ込んだカツ丼が惜しくなってしまうではないか。腹は十分に満たされているというのに。
「昨日のことだ」
直人は守の目の前で箸を割り、その箸の奥で目を光らせて言った。どうでもいいが、その箸は先がうまく割れていない。
「昨日? ……昨日俺が何をしていたのか、お前に報告する義務はないと思うんだが」
何も昨日だけではなく、今日の行動も、明日の予定だって報告する義務はない。ついでにいうならアルバイトのシフトや、守の授業スケジュールまで直人が把握しなければならないという法律もない。というか、もうプライバシーの侵害の領域だから調べるな、と言いたかった。
だがそれを諭そうとしても無駄だから、という理由で飲み込む前に、意外なところから声が上がって守は大いに困惑した。
「できればその……私も、説明してもらいたい」
「平野まで? どうして?」
「とぼけるつもりか、守のくせに!」
「何だよ、その守のくせにっていうのは……。平野?」
説明を求めると、平野は守のことを見て、一瞬で目を反らした。そんな反応にナイーブな一般大学生男子である守はちょっと傷ついた。
「昨日……私は駅前の遊歩道で西川を見た」
守から目を反らしたまま、平野は小さな声で答えた。いったい何を言われるのかと思って身構えていただけに、その内容は守を拍子抜けさせるほどに何ということもないものだった。
「駅前の遊歩道? あぁ、確かに歩いていたよ。お昼ぐらいだろう? 声をかけてくれればよかったのに」
見かけたというからには平野も同じ場所を歩いていたのだろう、と当然のごとく思った守は正直それ以上何の説明を求められているのか分からずにそう答えた。
「かけても良かったのか?」
探るような直人の言いように、守は自分の眉がくいと上がったことを自覚した。
「どういう意味だ? 直人」
詰問するように守が言うと、今度は直人の眉がくいと上がった。
「俺は偶然、お前を遊歩道で見かける前に平野に会った。そんな偶然いらないが」
「それは私の台詞だ」
「俺と平野が見たものは同じだ。平野の頭が狂っていなければ」
「その台詞はそっくりそのままお前に返す、真壁」
ああ言えばこう言う。まったく、こうしてお互いに茶々を入れあっていては話が前に進まないではないか。この二人に関してはいつものことなのだが。
「遊歩道を歩いている俺、だろ?」
結論を先回りして言うと、直人は行儀悪く箸を守に突きつけて訂正した。ちなみにやはりどうでもいいことなのだが、箸の先には直人の口に収まり損ねたご飯粒が二つほど付着したままだった。
「違う! 遊歩道を、女と腕を組んで歩いているお前、だ」
あぁ、と守は声を漏らし損ねた。
「……しかも、とても楽しそうだった……」
あぁ、なんだそのことか、と守は言ってしまいたかったのだ。けれど相変わらず守の方を見ようとしない平野の台詞によって、守の思考は一旦停止した。それが解除されると、今度はまるで走馬灯のように守の頭の中を昨日の出来事が巡って回って、遠心力でもって飛び去った。
楽しそうだった?
昨日の、あの時間を、俺が楽しんでいたと?
頭がくらくらするほどの大きな誤解だった。確かに親しい雰囲気は出ていたかもしれないが、楽しんでいたつもりはなく、守自身は逆にげっそりしていたはずなのだが。
「説明しろ、守。あの女は誰だ? お前、いつの間に腕を組んで歩くような女に知り合った。俺の知らないところで!」
だからむしろ何故、直人の知っている範囲でなければならないのだろう。いったい直人は守の何だと言うつもりなのだ。そしてご飯粒を飛ばすのはやめてくれ、汚いから。
「お前がどうして怒るのか理解できないよ、直人。でも、説明はする。平野」
守が平野だけに向き直ると、当然のごとく直人が騒ぎ出す。
「何で平野だけ呼ぶんだよ!」
だからご飯粒を飛ばすなってば。
「お前には説明しなくても良いと判断するからだよ」
「私には、説明しないといけないと感じるのか?」
「説明したい、と思っている。平野が直人と見たもの事態を否定することはしないけれど、とても楽しそうだったというのは平野の思ったことであって、俺はあのときとても楽しいという気分ではなかった」
守の答えに、平野は俯いていた顔を上げてかすかに目元を赤らめながら訴えた。
「わ、私が説明して欲しいのはそこじゃあない」
「そうか。でも先に言っておきたかったんだ」
やれやれ、勘違いというのは恐ろしい。けれど、勘違いしてこんな反応をしてくれるなら、望みがあるというものではないだろうか、と守は予測する。だから色々こじれてしまわないうちに、真相は早めに打ち明けておいた方が身のためだ。
「日曜日に俺と一緒に歩いていたのは、俺の妹だよ」
「……い、妹さん……?」
「出鱈目言っているんじゃあないだろうな、守」
唖然とする平野に、猛然と食いかかってくる直人。守は小さく肩を竦めた。
「男と女の兄弟で似ている、似ていないって言っても分からないだろう? でも本当だ。あいつは俺の妹。わざわざ朝一で実家から電車乗り継いで来たんだ。ちなみに四時過ぎにまた電車に乗って帰って行った」
高校二年にもなれば、私服で大学生と区別するのは難しい。兄弟仲が悪いわけでもなし、腕を掴まれて歩いていれば恋人に見えてもおかしくはないのだろう。けれど、彼らがもしもっと守の近くにいれば、間違いなく「お兄ちゃん」と呼んでいる妹の声が耳に入ったことだろう。そうすればこんな勘違いは生まれなかったはずだが、勘違いはこの場で解消すればいい話で、守は正直、二人がそこまで接近してこなかったことに安堵していた。特に直人なんて、もしかしたら探偵気取りで尾行してやろう、なんて考えていたっておかしくなかったのだ。昨日遊歩道にやってきたというのは、何か別の用事があってのことで、その用事が守の尾行よりも優先されたことを神に感謝しなければならないだろう。
「そ、そうだったのか……」
「ま、俺はそんなところだろうと思っていたがな!」
得意顔で最後のカツを口に放った直人に、嘘つけ、このやろう、と守はこっそり拳を握り締めた。しかしここで殴ってしまっては後々が面倒だ。守は握った拳を振り上げるのを我慢して、昼を食べ終えた直人が機嫌よく立ち去るまで待った。
果たして真相の半分を知った直人はご機嫌で次の授業へ行き、守は都合よく平野と二人きりになることができた。今日はこうして直人と平野の方から守を訪ねてくることがなければ、守が何とか平野を捕まえる予定だったのだから本当に運がいい。変な勘違いに感謝したいくらいだった。
「たかだか五百円ちょいのチョコレートをもらったお返しに、三千円以上する洋服をねだられるなんて本当に割に合わない」
守がそう言ってため息をつくと、平野がいつもの冷静な顔にちょっとだけ笑みを乗せて守を見上げた。
「お兄ちゃんは大変だな」
そういう彼女は確か一人っ子だったはずだ。その悪戯っぽい微笑が、何となく妹と重なって見えて守は苦笑する。
「まぁ、ね。でも、買い物に付き合ったついでにこっちの買い物にも付き合ってもらったから、文句は言えないな」
何の買い物だ、とは平野は訊いてこなかった。そういう線の引き具合は、大変好ましいと守は思う。ただ今回のようにこちらが踏み込んで欲しいと思っている時には、ちょっと寂しいとも思えるけれど。
「平野、手、出して」
守はすっと息を吸ってから段階的に吐き出すようにして言った。平野はそんな守の何やら改まった様子に首を傾げる。
「どっちの?」
「両方」
守が即答すると、平野は盆を捧げ持つかのようにして両手を差し出してきた。平野は女性としては背が高いが、そろえられた手は意外に小さかった。その上向きに差し出された両手に、守は自分の拳をそれぞれ重ねるようにして、その手をじっと見つめる平野の前で両手を開いた。開かれた守の両手から零れ落ちたものが、ぽとりぽとりと平野の手に乗る。平野はやはりそれをじっと見つめていた。
「……カエルと飴……」
ラッピングもされていないそれが、他のものに見えるということはまずないはずだった。
「組み合わせは気にしないでくれ」
そう言う守に、平野は眉間に皴を寄せて尋ねる。
「じゃあ、なんでカエル?」
「好きだろ? 平野。蛙が、というより、そのカエルのキャラクターが」
守が指摘してみせると、平野はまるで親の敵を見るかのような目で、自分の両手にころりと転がっている全体的に丸っこいカエルのマスコットを見た。
「……何で知っているんだ?」
「携帯にストラップつけてる」
「それだけで?」
「キーホルダーにもつけてるな」
「たまたまかもしれないだろう」
「実は杏ちゃんに訊いた」
「……そうか」
納得したような、どこか残念そうな様子で平野は俯いた。
「嘘。本当はそのカエル見たときの平野の顔が緩んでいるように見えたから、あてずっぽう。嫌いだった?」
「…………好きだけど……。じゃあ、何で飴?」
それはできるなら訊いて欲しくなかったなぁ、と守は思ったけれど、何となく平野が今日という日を失念している可能性は考えていたから、守は直球勝負に出た。
「チョコレートのお返し」
「……それって……」
いったいいつのチョコレートだ、と平野が訊いてこないことを守は祈った。その祈りが通じたのか何なのか、平野はしばらくの沈黙の後ぼそりと呟いた。
「被害者の?」
「そう、被害者の。だからちょっと、三倍にはならないけど」
第三者が聞いていれば意味不明のことを言い合って、守は平野の耳がほんのり赤くなったのを確認した。守は急に、今は平野と二人きりだ――つまりいつもの邪魔者=直人がいない――ということを意識した。これは、ひょっとしてチャンスじゃあなかろうか、と守が思った次の瞬間。
「呼ばれてないけど、ジャジャジャ、ジャ〜ン! こんにちは! 平野先輩、西川先輩!」
チャンスをなかなかものにできない男、西川 守はそんな自分の運命を諦めついでに受け入れていたので、特に落ち込むことなく頭を切り替え、無難に挨拶を返した。
「やぁ、杏ちゃん。こんにちは」
ついでに守がそのネタちょっと古くないか、と続けるべきかどうか迷っているうちに後ろからもう一人ミス研部員が学食に顔を覗かせる。
「あ、こんにちは」
「こんにちは、八尾君」
ここまで邪魔が入らなかっただけ運が良かったのだ、とプラスに考えて罪のない後輩達に笑顔を返した守だった。その脇で平野が、罪のない後輩達に後でどんな報復をしてやろうかと考えていたことなど、守はもちろん知らない。
探偵小説の中で、得てして探偵はヒロインの心の機微には疎いもの。
ほらほら彼女は君に恋している。
なんてわざわざ書いてあげるほど、推理作家は親切ではないけれど、伏線だけは大量に張ってあるのです。